POST PERFORMANCE TALK with ATSUSHI SASAKI (Critic) 30.03.2018
Japanese transcription
東京公演アフタートーク 2018年3月30日
ゲスト:
佐々木敦(ささきあつし)
批評家。HEADZ主宰。
ゲンロン批評再生塾主任講師。
著書多数。
最新刊は『新しい小説のために』(講談社)
©️bozzo
ハラ(以下・ハ)「演出・構成・出演のハラサオリです。本日はご来場いただきありがとうございます。これからDa Dad Dadaのアフタートークを始めたいと思います。ゲストとして批評家の佐々木敦さんにお越しいただきました。佐々木さんには、2014年の私の公演にトークでお呼びしまして「Pとレ」という作品でまずトークに来て頂いて、さらにその翌年に、東京芸大デザイン科での修了制作としてパフォーマンスを行いその時にもトークでお越しいただいているので、なので2-3年ごとにコンスタントに作品をご覧頂いています。(※2014,2015,2018なので、正確には2-3年ごとではない。)」
佐々木敦さん(以下・佐)「そうですね、ベルリンへ留学する前にこういう形でトークをしていて、いまは修了されて、一時帰国ということになるのですよね。」
ハ「そうですね。」
佐「ご存知の方がどれくらいいらっしゃるのかわからないですが、僕はダンス専門家でもなんでもなくて、そもそも舞台美術の専門家でもないんですけど、ちょっとご縁があってなんとか継続的にハラさんの作品を観せてもらっていて。今日ここでこう喋ることになったのも、たまたま、本当に普通に観に来るつもりだったのだけど。この前ここでヌトミックという公演があって、その時も僕(アフタートークゲストとして)喋っていたのですが、ハラさんも観に来ていて、そこでどうせ観に来るなら喋りませんかということで。で今こういう感じで喋っているという。過去の作品を観て来たので、もちろんそれなりに色々な印象を持っていた訳なのですが、今回はベルリンへ留学したということと、亡くなられたお父様のことをテーマにするという。要するに僕が前にあった時にはお父様もご存命でしたよね。」
ハ「そうですね、本当にちょうど(父が急逝する)2ヶ月前くらいでしたね。」
佐「ですよね、それでドイツへ渡って、一時帰国中に再会されたということですか?」
ハ「ちょっと複雑なんですけど。2015年に東京芸大を修了しまして、それでトークでお話をして、その修了制作(公演)の1ヶ月後に、別の作品を国内で上演したんです。『d/a/d(デーアーデー)』という、ちょっとタイトルがややかぶり気味の公演を行いまして、それに(父を)招待したんです。」
佐「あ、それがさっき作中で話していた公演ですね。」
ハ「そうなんです。本当に佐々木さんをトークへお招きした直後のことでした。」
佐「では僕が観たのは、お父様はご覧になってないんですね。」
ハ「はい。その後というか、その時期にちょうど再会を果たして、修了制作は観に来れなかったけれど、2週間後にもう一個あるよ。という感じで誘って、その4日後に急逝してしまったという。さらにそのすぐ後に私はベルリン芸大への入学を控えていたんです。」
佐「それでもう発ってしまったという。」
ハ「出発までの3週間の間に葬式をして、後処理をして、彼と自分それぞれの住居を引き払って、ゴーという感じで。ここ数年で一番バタバタしていた時期ですね。ちょうど3年前です。命日が3月5日なので。」
佐「それで、この作品がどういう作品だったかというと、僕はタイトルとお父様のことを題材にしていること以外何も知らずに来たので、どういう作品かということは全然見当がつかなかったんですね。それでもこうかな、こういう感じかな、というのはあったんだけど、今観終わって、観ながらも思っていたのですが、すごく素晴らしい作品だと思います。とても豊かで複雑な作品だと思います。表現者の人が一生に一回しか作れないようなものを丁寧に、鋭く、磨き上げて作った作品だと思って、とても感動しました。良い作品だと思います。」
ハ「ありがとうございます。」
ベルリン公演と東京公演の違い
©️bozzo (Tokyo)
©️Sylvia Steinhäuser (Berlin)
佐「解きほぐす感じで聞いて行きたいんですが、まず第一には、この『Da Dad Dada』という作品はベルリン芸術大学の修了制作として発表したということで、ちょうど一年前にやったことになるのかな?半年前?」
ハ「昨年の12月にやったものですね。私いま修了と言いましたが、明日修了なんですよ(笑) 3月31日。」
会場(笑)
ハ「2月15日くらいに色々なテストがあり、一応きみ修了よ、ということで、日本に帰って来ました。」
佐「あ、ではそういう意味では芸大の時と似てますよね。はっきり決まっていないけど(公演を)やるという。12月ということは3ヶ月前ということですね。それは向こうでやったわけだから、場所も違うし、一緒に出ていたダンサーというのも全然違うだろうというのがあると思うんですが。それで聞きたいことは初演のドイツでやったバージョンと、今回日本で迎えたバージョンはどのくらい違うのかということですね。」
ハ「そうですね、私もこの1ヶ月それをすごく意識しながら制作したのですが、この作品でダンサーに与えたタスクは2種類あって、まずは、きちっとショービズの世界を再現すること。8カウントでガンガン揃えて行こう、という稽古ですね。その次に、私がインプロでいつも考えていること、メソッドというか、間の取り方、立ち位置、い(居)方のようなものをワークショップを繰り返して共有していく。その解釈でインプロをやってもらう。という、つまりかなり対照的な二つのタスクを与えているんです。それで一番大きな違いというのが、日本チームとベルリンチームで得意なことが完全に反対で。今日出てくださった方達、ユニゾン、踊りを覚えるのがものすごく早いんです。それで放っておいても勝手に揃えてくれる。すごく仕事が早い、という印象があって。」
佐「それはビデオとかをもとにして?」
ハ「そうですね、映画から抜粋している動きなので、ミュージカルのダンスですね。映像のために作られた平面的な動きで、全部8カウントで決まっていて、1,2,3,4,5,6,7,8というノリで、その精度をあげていくリハなのでシンプルなんですね。でもすごく協力的だし、複雑なコミュニケーションを取りながら、自動補正がかかっていくような感じなんです。助かりました。」
佐「細かい微調整は本人たちがやっていくという。」
ハ「そう、私が言うより早いんです。それで、逆にベルリンの子達はユニゾンが揃わない。自由!と言う感じで、違うと言っても、私はこれが好きなの!くらいの勢いで。もちろん職業ダンサーとしてきちっと揃えてクオリティ上げてくれる人も(ベルリンのシーンの)中にはいますし、ただ私の周りで声をかけるとフリーランスでやっている人は特にベルリンだと色々な仕事をやっているコンテンポラリーダンサーが多くて、そういうつながりで呼んでいるので、色々なバックグラウンドを持っている。国籍もほぼ全員違って、欧州だけでなくアジアもいたし、アメリカもいました。そういう状況でそれぞれの体のクセを抜いていくのにかなりの時間をかけました。しかも、これは当時の日本人が作ったミュージカルダンスなので(型を合わせるのが難しい)。そして彼女たちがやったインプロというタスクを与えた時も、私が予想していたものとは全く違う、色々なリアクションがスパーン!と飛んで来て、ああもう全然コントロール不可能!という感じで、これはもう委ねてしまおうと。でも委ねたら突発的に良いことが起こる。その瞬間をピックして構成するしかないというか、それが一番良いな、という印象でした。それでさっき話したように日本チームは私の正確な言葉や指示にものすごく敏感なので、「あとは適当によろしく」と投げてしまうと難しいものがあった。ただ、言ったことに対してはものすごく正確に応えてくれるので、私が何をやりたいか、何を求めているかということをすごくみんなこう……(目を見開いてじっと見る)」
佐「読み込もうとしていると。」
ハ「そう、読み込むことへのテンション(緊張感)を感じて、自分の目的を明確に言語化するためにはとてもありがたかったです。」
佐「驚くほど国民性の表れるエピソードですね。」
ハ「そうなんですね、まあ国民性ということもですし、ベルリンに関してはその街の自由さとかオープンさということもあるのですが。それぞれのチームでポジティブに捉えられるようなハプニングがたくさんありましたね。そしてこのコンテンツが日本のものだし、それらと私の与えているタスクというのが、どう噛み合っているかということを常々意識していないと、どんどんドメスティックになっていくというか、私と父の私的な話に回収されていってしまう、ということは気をつけていました。」
佐「たまたまこれまで2回やった出演ダンサーの違いから、かなりはっきり対照的なことになったということですね。日本バージョンはおそらく一つの軸になると思いますが、例えばこれが、今後色々な国で、色々な形で、それぞれの国のダンサーたちと同様の作り方をしていくとまた色々なバリエーションが出てくるということを、作品自体の豊かさへ変えていける可能性があるんじゃないですかね。」
ハ「そうですね、おそらく作る場所によってごろっと変わる可能性があるんじゃないかなと。」
佐「去年(ベルリンで)やったときはスペースの広さはどれくらいだったのですか?」
ハ「ものすごく広くて…」
佐「あ、ここより広いんだ(笑)」
ハ「そうですね、学校に所属していたのでその施設内で行ったのですが、体育館のようなスケール感(400平米)で、リノリウム(床材)で、5m以上の高さがあり、四面真っ白な壁、プロジェクター、スクリーン、なんでもある、という恵まれた状態でした。」
佐「いわゆるシアターという。」
ハ「はい、シアター、スタジオのような感じです。リハーサルにも使われますが、トップアーティストが公演を行えるような場所でもある、という。だからテクニカル関係も基本的なものは揃っているという感じでした。」
佐「じゃあ今回はちょっとリサイズしたという感じですか。」
ハ「そうですね。サイズも変え、で、この、これ(会場中央の柱を指す)ここで上演する団体全員が悩む、この柱ですね。」
佐「これね、いい感じの位置にあるこの柱。」
ハ「そう、ここが最高なんですよ、観る位置としては全部。そういうこともあり、テクニカルが複雑になってしまったり。あとは吊り位置の低さもあって。」
佐「そうでしょうね。」
ハ「なので、一番違うところというのは実はテクニカルかもしれないです。テクニカルの負担や複雑さはかなりありましたね。客席の見切れもあるし。」
佐「全体の構成は変えていない?」
ハ「そうですね、タイムライン上は変えていないです。一部順番をスイッチした部分と、注釈を省いたところはあります。」
佐「ああ、こっち(日本)の方がいらないですよね。」
ハ「そうですね、例えば紅白歌合戦とかドイツでは『?』なので(笑)」
佐「絶対分からないもんね(笑)」
ハ「私としては自分の父が紅白に出ていたなんて『えぇー?!』という感じなのですが。」
佐「それちょっと(今日)ウケてましたよね(笑) すごくない?ってなってた。」
ハ「でも向こう(ドイツ)では当然通じないので、途中で『紅白とは』みたいな注釈入れたんですが。」
佐「説明しても分からないんじゃないかな(笑)」
ハ「そう、インパクトは全然伝わらない(笑) あともう少し突っ込むと、母子家庭の苦労とか、父親がいない、パートナー、継父がいない、ということは伝わったニュアンスが違うと思います。そういう部分ベルリンはかなりオープンというか。」
佐「オープンでしょうし、多いでしょうしね。区別もなさそう。」
ハ「そうですね、だからコンテクストがかなり違って。周囲の人に話しても、特段冷たくはないし、理解はありますが『みんな色々だよねー』でサクッと終わる感じですね。私の日本での境遇や複雑な心情は正確には伝わっていないと思います。ステップファザー(継父)、母親の彼氏というのもフランクな話題ですね。私はそれが心地いいんですけど。」
佐「それはなかなか興味深いですね。こういう作品だからこそ出てくる。まあ養子とかもありますね。」
ハ「そうですね、全員血の繋がっていない家族をパッチワーク家族と言ったりもします。」
『リサーチ』について
佐「では今の話題から、根本的なお話へ行きたいのですが、この作品における重要な要素というのがいくつかあって、一つは前半に出てくるあの映画。なんてタイトルでしたっけ。」
ハ「『アスファルト・ガール』です!」
佐「そう、やばいタイトルですね(笑)」
会場「(笑)」
ハ「そうすごくいいんです。」
佐「『アスファルト・ガール』の年、東京オリンピック、それ僕の生まれた年なんですよね(笑)」※1964年
ハ「そうですよね、今回お招きして改めてプロフィール拝見した時に『あ!』と思いました(笑)」
佐「そんな人がこんなおじさんになってしまうというくらい昔の話だということですけど、あれが一つの核ですよね。あのシーンを再現したり。そして、もう一つが当然、お父様との会話ですね。」
ハ「はい。」
佐「これはお父様を訪ねられたのは『リサーチ』と言っていましたが、そういう気持ちがあったから録音もその一環として行ったんですか?」
ハ「そうですね、うーん…。」
佐「作品のためとか考えたいたわけではないけど録ってはいたという感じ?」
ハ「そう、全然そんなつもりなくて。記念のような。iphoneで適当に録ったので録音状態も悪いです。3年後にこんなことになると思っていないですしね(笑)」
佐「そうですよね(笑)」
ハ「ちょうど本格的にドイツへ留学する直前だったので、向こうで何があるか分からないし、一応会っとくか、という。そのついでの録音でした。」
佐「そういうことですよね。長い間日本を離れるから、ということですね。」
ハ「そうですね。それで結局彼の死後、気持ちが落ち着くまでに2年くらい経ってしまって。作品にしようと思ったのは1年前、1年も経ってないですね。去年の5月ごろなので。」
佐「なるほど。」
ハ「それまではこの出来事を作品にする勇気がなかったし、今手をつけていいのか、もっとこう自分が『できる!』となった時、10年後とかにやるべきなんじゃないか、と悶々としていたんです。でも去年、ベルリン芸大のソロパフォーマンス専攻ということろにいたんですけど、」
佐「そんな専攻あるんだ(笑)」
ハ「そう、8人しかいないんですけど(笑)」
佐「パフォーマンスということはダンスだけじゃないということですよね」
ハ「はい。『パフォーマンス』なので物を置く、取る、置くだけの人とかもいました。学部の名前に『ダンス』は入っているんですけど、かなり広義ですね。ダンスのバックグラウンドがあるのは8人中私入れて2人だけでしたね。あとはボイスパフォーマンスとか。」
佐「ああ、それも含まれるんだ。」
ハ「あとライブドローイングもいました。」
佐「広い(笑)」
ハ「他には医大を卒業して、解剖学的な観点からそれを視覚化してインスタレーションを制作する学生もいました。だからみんな身体的なトレーニングは一切共有していないです。」
佐「なるほど。」
ハ「そこの修了制作というのは学校から一部予算も出るんですね。そして最終的には400平米の場所で、観客は100名以上来る、という公演を2回できる。こんな恵まれた環境で、しかも批評をもらえる。まあボコボコにされるんですけど、半年間ものすごく細かいステップをきちっと踏んで制作ができる、こんなことは二度とないだろうと思ったんです。それならもうあれを出すか…という感じで父親のことを扱うことにしました。それでもう一度、作品を作る前提で最初からリサーチを始めたんです。」
佐「ああなるほど。」
ハ「例えば、あの『1964年』(アスファルトガールが発表された年)がどんな年だったかとか。最初、私は全然ピンと来ていなかったんです。」
佐「何十年も前のことだものね。」
ハ「それで調べていたら『初の東京オリンピック』にたどり着いて。それは原健が33歳なんですけど、私は次の東京オリンピックの年(2020年)に32歳になるんですよ。」
佐「ああ、なるほど。」
ハ「あと直接は関係ないですが、60年代当時ってベルリンの壁が建った時代なんですね。1963年。そして私はベルリンの壁が壊れる年(1989年)の直前に生まれているんです。そうした時代背景や事実を調べるにつれて、世界の大きな出来事がどのようにして個人の人生を翻弄して来たかということに、まず興味を持つようになったんです。それで、当時の日本の状況や、その状況が何によって引き起こされたかということをさらに調べたり。だから毎日毎日カタカタ調べ物をするというのがこのプロジェクトの始まりで、私と父の話にフォーカスせず、どこまで外のレイヤーへ行けるのかという事を考えていました。さらに社会的、政治的な視点や、国際情勢といったレイヤーの外には、生き物としての生死といったフレームを設定し始めて、生死とは、葬儀とは、という考え事をしていくうちに、動物による死の理解についてのリサーチを始めたんですね。葬儀を行う動物もいるので。野生動物がどのように死を理解するか、受け止めるか、という事を調べながら『ネアンデルタール人』のことを思いだしたんです。話題が飛びますけど(笑)」
佐「おお(笑)」
ハ「ネアンデルタール人って、我々と同じヒト属なのですがもうとっくに絶滅してしまった種族なんですね。なんというかサル的な…」
佐「いわゆる類人猿ですね。」
ハ「そうです。それで彼らを研究している考古学者が彼らの生活していた洞窟を調査する中で、その遺骨と一緒に大量の花の花粉の化石が発見したという発表が何年か前にあったんです。それは当時結構大きなニュースになっていて、どういうことかというと、彼らが死んだ仲間の遺体に対して花を手向けていたという記録なんです。死の理解だけではなく、花が何かを見送る記号になっていた。そうしたことが、文明や時代が違っても共有されていた(かも知れない)ということにかなりのショックを受けたんです。」
佐「それは本当に驚くべきことですね。」
ハ「はい。私も父の葬儀で花を手向けましたし、そのことがずっと頭にありました。それで人間という枠を超えて、哀悼とは、儀式とは何かという思考の元に制作をしていました。」
佐「なるほど。」
©️bozzo (Tokyo)
©️Sylvia Steinhäuser (Berlin)
地震のシーン
佐「いま話してくれたいろいろな要素というのが、さっき僕が言った豊かで複雑という感想という意味の一つだと思うのですが、それともうひとつ、一生に一回しか作れないということについて。自分自身の物語、自分にとっては事実なのだけど、それを題材にすることの、重要さとともに危険さというのは当然あるわけですね。それは多分僕がお父さんの話を扱うのだということだけ知って、見始める前に最も強く感じていた気分の一種だと思うんです。それが結果として、すごくうまくいっているように見えたのは、まさに今の話で。ハラさんとお父様の関係というのは、とてもとても重要で、それがなかったらこの作品はないということなのですが、それをとにかく徹底的に対象化していくということをいろいろな手口でやろうとしていて、その結果、それが父と子の物語や、事実として何年か前にあった会話を、時間や空間のフレームを拡げたり縮めたりする形で対象化できていると思いました。だから、多くの人はもちろんハラサオリと原健の物語としてこれを観るのだけれど、でも多分それだけじゃない。二人の間に起きた特別な物語だけを観るだけはない、普遍的なところへ達そうとしているのは観る中でもわかってくるようにできていたと思います。だからそれは随分考えたなと。相当色々考えて作ってこうなったのだろうなと、観ながら非常に感心していたことです。
©️bozzo (Tokyo)
©️Sylvia Steinhäuser (Berlin)
もうひとつ、お父さんの録音に関して聞きたいなと思ったことがあって、とても印象的な前半のテーブルのあたりの。位置変えたり、動いたり、何をやってるんだろうな?というのが、地震へ繋がっていくというシーンがあって、あのあとに「3.11の時何してた」という録音になりますよね。あれは当然、再会した時のものだと思うのですが、それを聞いた時というのは、作品として使うという意図がなかったとしても結局あのシーンに繋がっていくわけですよね。聞いた時というのは、どういう答えを期待していたの?」
ハ「なんで聞いたんだっけ…。」
佐「ただ普通に思っただけ?いろいろな話題の中で出てきただけ?」
ハ「それもありますね、この会話5時間くらいあるのを8分にしたので(笑) ただ3.11というのは私にとっては本当に大きな出来事で、ここでは省略しますが、本当に人生が変わってしまうようなことがあったんです。ダンサーになると決めた理由でもあり、そのあと父の姓を継ぐために戸籍を書き換えたんですね。もともと母の姓だったのですが。だからこの作品を作る前から、同じ時代に生活する中で、大きい出来事があった時にお互い何をしていたのかなということは気になっていたんだと思います。あとは3.11の時に家族とか絆というワードが嫌になる程聞こえてきて、その時私たち(自身と原健)はなんの絆ももちろんなかったし、今も感じられるものはないんですが、会った時はなんとなく「(娘として)聞いてやってもいいかな」という気持ちになったんだと思います。」
佐「あーなるほど、でもなんとも曖昧な答えでしたね(笑)」
ハ「そうですね、父は自分がどこにいたかもあんまり覚えてないという(笑)」
佐「でもそれは本当に多分その5時間の中でどこをもとにして作品を作るかという検討のために、この録音を何度も聞いたり、それについてずいぶん考えたりしたと思うんですね。それであそこは残されたということですよね。」
ハ「そうですね。」(補足1)
佐「オリンピックの話でいうと、今年2018年じゃないですか。それで2020年にこの作品を再演すると、また意味合いが随分変わってくると思いますね。まあ2年後なんてすぐですから。」
ハ「そうですね、助成金の書類を書かないと…。」
佐「生臭い話だな(笑)」
ハ「いつも間に合わないので(笑)」
再演の可能性
佐「これは今日初日で、このあとまた明日明後日とあるわけだけど。これは人は出ているけど、ソロ作品なわけですよね。さっきも言ったように、これはいろいろな国でできるものだと思うんです。それで、僕はハラさんがいわゆるダンサーとして、まあ『いわゆる』というのもよく分からないんだけど(笑)、それとして今後も活動をして行くのか、ダンスを含むもっといろいろなことをやる人としてやっていくのか全然分からないけれど、この作品は変えていくことがあるとしても再演していく作品になると思うんです。例えはあまり良くないかも知れないけれど、山田うんさんの「ディクテ」のような。時々一人でどこかへ行って再演したり、やるたびに変化していく、ということとして、重要なものを作ったなという風に思います。2020年というのは2年後に日本でもう一回、というのは、気が早いすぎますがありかなと思います。」
ハ「そうですね、やるタイミングや国は私もいつも妄想があって。ベルリンでやったときには、『この作品は毎回15人新しく呼んでリハをするとしたら、プロダクション(制作費)どうするんだ』という質問をよくされました。それで一つもらったアドバイスは、S/M/L/LLというのを作った方がいいというものでした。LLが今回の私+15名(実際には13名)。Lが10名。Mが5名。Sがソロ。」
佐「あーなるほど、それはすごくいいんじゃないですか。」
ハ「私自身、この作品をどうトランスフォームさせるかという妄想は色々していて、ライブがない、つまり生のダンスがないという形態も絶対ありえると思っていて、最終的には展示形態を目指しているところがあります。その手間にソロがあってもいいと思います。まあリサイズというのは人数の問題だけではないかも知れませんが。」
佐「これ動きを伴うレクチャーパフォーマンスというのがあってもいいんじゃないですか?」
ハ「そうですね、音響とか照明が全くなくても、できるものなのかも知れないということも考えたりしています。今回は相当なサポートをいただいてこの形が成立しているのですが、例えば、リュック一つで外国へ行ってもできるようにしたい気持ちもあります。」
『不在』について
佐「もうひとつ質問です。これはチラシにもありましたし、作中でも『不在』がテーマということを言っていましたが、そのことについて少し話してもらえますか?」
ハ「まずはその父と死別したことの『不在』ということがあるんですが。」
佐「でもその前から『不在』だったわけだよね。」
ハ「そうなんです。だから亡くなったことに関して強烈な『不在の存在』のようなものを感じていないんです。ないものがなくなった、ということを理解することがとても難しい。作品を作り始めるまでの2年間、そこに苦しみました。不在を実感するための思考と言うか。あるものをあると言うことは簡単なんです。でもないものをないと言うのはとても面倒だし、言い続けなければいけない。それを怠ると、すぐに『ない』ことを忘れてしまってあるような気がしてきたり、諦めきれなくなってきたりする。2年間、彼との別れについて『諦めきれない』というのがずっとありました。それに私は他人と死別したことがそれまでなくて『死んだ人にはもう会えない』ということを全然わかっていなかったんです。それで2年経った時に、とても時間がかかったのですが「あ、会えないんだ」とやっと気づいたんです。それは父の海洋散骨をした時でした。それでやっと私なりに『不在』というものと、その難しさを理解して。だから葬式をやって、『◯回忌』というような、不在を実感するための儀式を毎年行わないといけないのかなと思いました。不在を実感するためのプロセスを定期的にやらないといけない気がします。」
佐「不在ということはかつてあったということを確認し続けるということですよね。かつてあったということをまず構築しなければいけない。それをその上で超えていくということが必要ということですよね。」
ハ「そうですよね。だからダンサーとのインプロに関しても「ないもの」との対峙という話はたくさんしました。」
佐「そういったテーマに対して、映画のシーンやダンスがとても明るいじゃないですか。あれがやっぱりシーンをチェンジするためのいい道具になっていますよね。」
<お客様からの質問>
Q. お父様は、終戦の時点で13-14歳くらいだったと思いますがそういった話はされましたか?
ハ「たくさんはしませんでした。ただ、父の家は多分裕福なお家で、海軍の家系ということ、自分も一歩間違えば海軍学校に行かされて、戦艦大和と沈んでいたと思うと言っていました。終戦後の話ではありますが、父が芸能界へ進むと言った18歳の時点で勘当されているんですね。だから入るお墓がなかった。そういう厳格な家だったということだと思います。」
Q. 制作や踊ることを通して、お父様との血の繋がりの様なものを感じたことはありますか?
ハ「非常にシンプルな話ですが、私たち、顔や身体が似ているんですね。それでこの映画のビデオを繰り返し観る中で、彼の動きの癖とか、遅れ気味になっちゃう感じとか、『うわぁ…わかる…』と思ったりしました。」
(補足2)
<補足>
時間や話の流れの関係で触れることができなかったことをこちらに記します。
補足1
トークで言及した通り、父に地震の質問をしたのは個人的な興味からでした。
しかしそれをシーンとして取り入れたのは、私と原健が年齢をほぼ同じくして迎えるそれぞれの「東京オリンピック」のコントラストに言及する為でした。
現在の日本は、2011年の地震と原発事故を大きなきっかけとした経済状況の悪化はもちろん、国際社会における信用度に関しても、高度経済成長期当時とは対照的な状況です。
父親の世代とは同じようにこの祭典を受け止められない私の立場を表明すること自体が、現代に踊るものとして残せるものの一つであると考えました。
補足2
これは会場で販売したエッセイブック「Da Dad Dada」を制作した大きな理由で、全公演でお客様にお伝えしたことではありますが、
我々が血を通して共有していたのは、踊ることだけではなく、舞台に立つ人間特有の病のようなものだったと思います。
光や空間の仕組みや、身体的な技術を駆使して、都合のいいものだけを観せてしまう傲慢さ。
この作品を通して、自分が嫌悪してきた父親の演劇的な人格と同質の病が自分にも引き継がれているということ、私自身がそれを選択してきたことを痛感しました。